序章

思わぬ出来事。思わぬ出会い。それはいつしか、私を思わぬ運命へと導いてきたのだ。

――グリータ=シナモン『ミラノ最後の魔女』より

 

 

ある勇士の伝説。

 

 ジュネーブ島の東の山岳地帯に城を構える小国――ミラノ王国。

 350年前に、本国ジュネーブ王国における王権争いに敗れた王子が、土地もあまりよくないこの場所に王国を建てたのが始まりであると記されている。この国の記録は、その建国以来、書記長官が置かれ、その一族によって代々伝えられてきた。

 その記録の中に、ある勇士の生涯が、断片的に綴られている。

 名を、タナン=セルリアン。

 その台頭は、弱小国家ミラノに彼が創設した、警備隊という小さな組織から始まった。だが、彼の登場を描く前に、まずミラノ王国が置かれていた当時の状況を鑑みなければなるまい。

 

 ミラノ王国は建国の経緯からしても、あまりにも土地に恵まれなかった。だがもう一人、同じく王権争いで敗れ、ミラノ建国王・メイレンよりも先に南へ逃れてグラーツ王国を建国した女王グレイシーがいた。グレイシーはメイレンと母を同じくする姉であった。彼女が開拓した南の土地は、思いがけず豊潤であり、農作物に恵まれた。

 弟であるメイレン王は、両国間で交易ができないか彼女と交渉を続けたが、もともとの王権争いによって従う者たちの派閥もいがみあっていたのが災いした。姉弟仲良く協力する次第には至らなかったのだ。やがて姉弟は和解することが叶わないまま、王座を降りて子息に王権を譲ることになる。

 何十年と王の代を重ねるうち、ミラノ王国民のグラーツ王国に対する反感はいつしか高まった。自分たちよりも豊かな自然の恵みの恩恵を受けるグラーツ王国民に、山岳地帯の厳しい自然条件で暮らすミラノ王国民は嫉妬したのだった。また、グラーツ王国民のほうも、やせた土地に暮らすミラノ王国民に自分たちの食料を分けてやる義理はないと、頑として土地と食糧を守り固める。こうして高じた双方の反感によって、当然のことながら、国境付近での両国民の諍いが頻発することになったのだった。

 小競り合いが頻発する状況を、両国の王は黙認していた。為政者にとって、国民の目が外に向くことは、為政者自身から国民の目が逸らされるのと同義だからだ。内に向かう国民の目は、為政者を監視し圧迫する。国内で起こる貧困や暴力の問題の、責任の所在が、敵国という存在によって曖昧になるのである。やがてこの状況は歯止めが利かなくなり、ついには両国の王が軍隊を組織して、国境での戦争を繰り広げるようになった。そんな中、「戦場王」の名を遺したミラノ王国の12代目の国王が現れた。

 戦場王アレス=セレスト。自ら戦場に出、指揮を執り、戦場で散った偉大な王。

 そしてその息子、ミレトス=セレストは、父王に似つかず温和で心優しい王であった。

 戦場王アレス王の死後、弱冠10歳にして13代目国王となったミレトス王は、自らが17歳を迎える年、タナン=セルリアンを配下に加えることとなった。

 

 勇士タナン=セルリアンは、ミレトス王の妹姫、カモミール=セレストを救ったことで、平民の出でありながらミラノ城ワルト=ブルクで出世を果たす。彼が師事したのは、当時のミラノ城内仕官の半分を弟子に持ったといわれる書記長官・グリータ=シナモンであった。この二人の出会いが、ミラノ警備隊創設という形をとることになったのは、ミレトス王がタナンに出会ってから3か月ほどしか経っていない頃であった。

 タナン、という名は、ミラノはもちろんジュネーブ島全土でも聞いたことがないような、不思議な名であった。聞けば、本名ではないのだという。しかし、孤児として彷徨っていたころから、名乗るべき名と言えばそれしかなかったと、彼は言った。

「好きな名では、ないんですがね。とても、重い。けれど、私はこれを背負うべきなのだと、今は思っています」

 柔らかな光が差し込む窓辺に佇み、そう静かにこぼした彼を、私はなぜかよく覚えている。あまり笑う人ではなかったのだが、その時は、かすかに笑っていたと思う。茶色い、癖のある髪の毛に、平静さを伺わせる灰色の瞳。警備隊の青いマントに身を包み、白い馬に乗って剣を操る騎士。

 

 あの激動の時代を駆け巡った彼は、静かで多くを語ることはなかった。今ここに、あの青年の軌跡を記すこととしよう。

 

 これは、彼を知っているようで知らなかった私が、父の背中を追うための記録でもある……。

 

 

―勇士伝 序章 完―



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