エピソード.5 雨の中の逃避行

 夜が明けると同時に、ティアルは目を覚ました。昨日までの疲れがだいぶとれている。これなら、まだまだ走れる。ふっと、アシュナのほうを見やると、雪に顔をうずめていた。息が止まっていないかと一瞬さぐったが、どうやら普通に寝息を立てている。ほっとして今度はエテルたちのほうを見る。エテルはテラとディオの真ん中で横になり、テラは横になっているがディオは座って槍を持ったまま寝ていた。疲れはとれただろうか。

 ディオもテラも、昨日ザノアの街へ去ったサラも、ずっとエテルを守るのに必死だったことだろう。夜も眠れなかったかもしれない。王家にいると、いつなんどき、どんな理由で殺されるかもわからないと聞いたことがあった。

 アシュナが、うーんと声を立てた。そっとそちらを見ると、彼の眼もとに何か跡がついているのが見えた。

――なみだのあと?

ティアルは泣いた記憶がないからよくわからないが、昔、叔父に教えてもらったのを思い出した。小さな子をなでてやりながら、自分に話しかけてくるのだ。

――泣くとね、こういうふうに跡がつくんだ。もしこの跡があるのを見つけたら、優しくしてあげるんだよ。

 あのとき叔父がなでていた子は誰なのか思い出せないが、その子のなみだのあとを優しく拭ってやっている叔父の姿は、よく覚えていた。

 断片的な記憶でしかないが、それでも前よりずっと、昔の思い出が鮮明に蘇るようになった。ゼナンとシオンに出会う前は、本当に自分のことが分かっていなかったのだと、この時思った。

 ティアルはアシュナの涙の跡を、そっと拭った。兄として、苦労が多かったのだろう。昨夜は、妹の身を案じていた。

 空を見上げると、まだ曇っていた。空軍が追跡するには不都合な天候だ。ありがたい。

「まだ曇ってるな」

手元の口が動いた。

「あ、アシュナ。起きたか」

「なんだ? この手」

「え? いや、何でもない」

ティアルは手を引っ込めて曖昧に笑うと、また空を見上げる。アシュナは起き上がって自分で目をこすり、涙の跡も消した。

 アシュナはしばらくして、静かに言った。

「久しぶりだったから」

「え?」

「人と寄り添って寝るのがさ。懐かしくて、嬉しかった」

アシュナは涙のわけを言っているようだった。ティアルは、あれが悲しみの涙ではないことに気づいて、笑顔になった。

「なんだ、そうだったのか。良かった」

「ティアルに見られるとは思わなかったぜ。お前、起きるの早いのな」

アシュナは苦笑した。照れているのだ。ティアルは優しく笑って、立ち上がった。

「あの人たちに早起きしてもらうかどうか、ちょっと迷ってた」

ティアルは言いながら、ディオを見た。

「あの人たちとしては、一刻も早く着きたいに決まってるよ。早起きしてもらおう。あとでどうして起してくれなかった、と騒がれても困るしな」

アシュナも立ち上がって、ディオたちを見る。ティアルは「そうだな」とうなずいて、近づいていき、ディオに声をかけた。

「お? おう、もう朝か。なんかひっさしぶりに、ゆっくり寝たわ」

敬語じゃないので少々驚いていると、ディオは伸びをした後、すぐに敬語に戻った。

「じゃ、姫様たち起こしますね。あんたは、馬の様子を見てくれますか」

ティアルはうなずいて、馬三頭の様子を確認した。

「あら、もう朝?」

「お疲れはとれました?」

「ええ、大丈夫」

起きた女性二人の会話を遠くで聞きながら、馬に手を当てていると、そのうちの一頭がいなないた。ディオが近づいてくる。

「どうしました?」

「あ、いえ……何でしょう」

落ち着かせようと手をあてると、走り出そうとして地面をけった。しかし地面につないであるので動けない。それでも必死で走ろうとしている。ほかの二頭はというと、全く意に介せず、足元の雪を食べている。

 走ろうとしているのは、あの白い馬だった。

 ディオとティアルで苦戦していると、テラが飛んできた。ひらりと馬に飛び乗る。

「どおー、どおー」

テラは慣れた手つきで馬を操る。白馬は、次第に落ち着いた。

「大丈夫、大丈夫。これはただの雪よ」

テラは馬にそっと話しかける。ティアルが何か聞きたげにテラを見ると、説明してくれた。

「この馬はね、自分と同じ色の雪が降り積もっているのを見て仲間だと勘違いしたのよ。昨日騒がなかったのは、もう遅くて暗かったから、白く見えなかったのね」

「なるほど」

ティアルもディオもうなずいて、白馬のほうを見た。『雪』と馬は、ほとんど同化して雪原に見える。

「雪なのに、この暑さで溶けないなんてね」

エテルが伸びをしながら言った。その口元は笑っている。いい夢でも見たのだろうか。

「神が特別に降らせてくださったモノですからね。何があってもおかしくありませんよ」

アシュナが笑いかける。エテルも笑顔になる。

 この五人の中で、根っからの「神に仕える者」はアシュナだけだろう。ティアルは教会で育てられたけれど、はっきりとした自覚のないまま軍に囚われているし、エテル、ディオ、テラの三人はテレム人でもない。ましてやザノアの王宮に仕える者たちと王女だから、神の教えは程遠い所にあったに違いないのだ。

 アシュナの存在に感謝しながら、ティアルは馬の手綱を引いた。走るのにはこの雪は少々邪魔かな、とも思ったが、せっかく神から与えられたもの、すぐにそう言ってお邪魔虫にしてしまうのは良くないと思って、何も言わなかった。

「教会に着いたら、もっとゆっくり眠れるかしら」

エテルが明るく言う。ディオもうなずき、テラはくすくす笑う。

「王宮なんぞより、さぞ寝心地がよろしいでしょうよ」と。そう言う彼女は今日も馬に乗らず、走るつもり満々のようで、アシュナとティアルを早く馬に乗るようにせかした。

「すみません。無理をさせているみたいで」

「いいのいいの。わたくしめなどは、こちらのほうがお似合いなのよ」

ティアルは少し後ろめたさを感じたが、ここで無理に馬に乗せる方が失礼だと思ったので、言われるまま馬に乗った。

 アシュナが先頭を切って走り出した。ディオとエテルを乗せた馬、少し離れてテラ、ティアルの馬と続く。

「今度は雪じゃないようだな」

ディオがつぶやいた。

 空を仰ぐと、雨雲のような黒い雲がかかっていた。ひと雨来そうだ。

「雨水をためておきましょうか」

テラが言う。ティアルはうなずいて、ヒッターの服の中から非常用の袋を取り出した。それを馬の鞍にかけ、その上から跨る。こうしておけば、雨天の最中を走れば雨水をためておくことができる。アシュナも真似をして、そうした。ただこうすると、馬の扱いに慣れていないと相当走りづらい。ティアルもアシュナも最初は苦戦した。

「ティアル、手綱を引きすぎよ! それじゃ馬が走りづらい。緩めてあげて」

「は、はい!」

「アシュナ、もう少し上体を屈めて! 後ろに体重がかかると、走りづらいでしょう」

「はいっ」

こう助言してくれたのは、テラ。さっきの馬の扱いといい、今の助言といい、この人は本当に馬に乗り慣れていないのだろうか。

 雨が強くなってきた。普通なら一番明るい、正午の時刻。あたりはうす暗かった。雪も雨に溶かされてほとんど残っていない。

「聞こえる?」

雨の音にかき消されて、かろうじて聴き取れるくらいの、エテルのか細い声が聞こえてくる。ティアルが応える。

「なんとか。どうしました?」

「教会に着くまでに、休める場所はないの?」

「ずっと砂漠か、廃墟だと思います。雨をしのげるかはわかりません」

ティアルも目いっぱい声を出して答えるが、あちらに聞こえているかを確認するのは難しかった。

 この天候では、軍は追跡を延期するだろう。どうせあちらは大軍だと高をくくっている。あの四分の一は、裏切るだろうに。だがこの雨では、こちらも進むのが容易ではない。

 ……はたして、成功するだろうか。

「ティアル、町が見えたぞ!」

アシュナの声だ。先頭にいるので、だいぶ聴き取りにくいが、こっちも声を張り上げる。

「廃墟か? それとも人がいるか?」

「何だって?」

「廃墟なのか?」

「あちこち崩れてるけど、ミディンに比べりゃ被害は小さい」

「雨宿りできそうなところは?」

「見える。いつ崩れるかわからないが、そこに一応馬を止めるぞ」

「そうしてくれ」

アシュナがスピードを上げるのがわかった。ふっと前を走るテラを見ると、だいぶ疲れが見える。ディオとエテルも、アシュナについてスピードを上げるが、テラは走っているので精いっぱいで、もうこれが限界というように歯を食いしばり、それでもスピードは維持していた。

 ティアルはスピードを上げると、テラに声をかけた。

「乗ってください」

今回はさすがのテラも疲れていたのだろう、ありがたいというようにティアルの後ろに飛び乗った。

「すまないわね。もう歳かしら」

「全然、そんなことありません。馬と同じスピードで走っていらしたんですから」

「そうかしらね。いえ、ありがたいわ、ほんとに」

前を見ると、ディオの後ろ姿はほとんど見てとれなくなっていた。

「つかまっていてください」

「どこに?」

「おれに! スピードを上げます」

テラはティアルの腰にしがみつくと、「いいよ」と合図した。

 ディオの背中はさっきより遠くなっていた。アシュナもかなりスピードを上げている。ティアルは馬のスピードを上げ……ようとした。が、ティアルの乗っている馬も体力の限界に来ていたようだ。

「おい、大丈夫か?」

ティアルは応えるはずもない馬に声をかけると、徐々にスピードを落とさせ、やがて止まった。ディオの姿は見えなくなっていた。

「あらやだ、目をまわしているわ。これじゃ走れないわね、かわいそうに」

息苦しそうにテラが言うのを聞いて、ティアルは馬を下りた。

「どうするの?」

「あなたは乗っていてください。あと、おれの上着を着てください、冷えますから。おれはまだ体力があるから、馬を引いていきます。時間がかかるかもしれません、辛抱してください」

ティアルはテラに上着を着せると、手綱を引っ張って、馬に優しく声をかけながら引きはじめた。テラも馬をいたわって、なでてやっていた。

「ごめんね、本当はわたくしめも歩きたいのだけど。もう足が動かないわ」

「いいえ、無理はなさらないでください」

テラは本当にごめんなさい、と頭を下げた。その拍子にバランスが崩れたものだから、よろめいたが、どうにか持ち直した。

「いやあね。こんなことで体力がなくなるような体質ではなかったのだけど」

テラは苦笑しながらため息交じりに言うが、ティアルは、『こんなこと』と言える彼女の心境がわからなかった。昔はどれだけ、優秀な女護衛士だったことだろう。

 雨は降り続いた。

 雨は次第に、一寸先も見えぬかとも思われる深い霧を伴ってくる。馬はどうにか歩けるようだが、テラをこれ以上雨にさらして馬に乗せて歩くのは、できることなら避けたかった。

 ティアルの体力も、徐々に、だが確実にそがれて行った。テラに上着を貸したのはそれなりの自負があったからだが、さすがにこの雨の中上着を着ずに歩くのは応えた。テラはそれを申し訳なく思っているようだったが、それ以上に寒くて仕方がないらしい。ひとことも発さずに、震えていた。

 やがて、アシュナが言っていた廃墟らしき街並みを見た。雨と霧が深くなっていたので、遠目では全く見えなかったのだ。テラは相変わらず震えているが、声を振り絞るようにしてティアルに聞いてくる。

「雨宿りは……できそうかしらね」

「あと少しです、あと少しだけ」

ティアルはゆっくり慰めるように言うと、廃墟に足を踏み入れた。

 あちこち崩れているが、雨宿りできそうな瓦礫を見つけてその下に馬を滑り込ませる。雨が当たらなくなった。馬がぶるぶるっと体を震わせたので、テラは振り落とされそうになった。ティアルが支えると、体の力が抜けてするすると座り込んだ。

「ああ……一安心したわね」

「そうですね……」

テラは体を震わせているが、ようやく体を休めることができて安堵している様子だった。馬にも「頑張ったね」と声をかける。馬はまたぶるぶるっと体を震わせる。

 一方ティアルはと言うと、アシュナたちを見失ったことと、この雨が止めばそのあとは快晴になり、空軍の追っ手が来てしまうだろうということに、ただならぬ焦りを感じていた。

「ティアル、体が震えている。私が上着を取ったからだね……」

テラがティアルの手をさする。ティアルは首を振って、寒気がするのは雨のせいだけではないことを告げる。すると、テラはほほえんだ。

「何を言ってるの。神様が導いてくださるのよ。なにも恐れることはないわ」

ティアルはうなずいたが、不安な気持ちをおさめることはできなかった。

 空軍が追跡隊より早く着いてしまうのは、考えられないことではない。むしろ、その可能性のほうが高いと言っていい。追跡隊が空軍と主軍の間で挟まったら、反旗をひるがえしてもつぶされるだけだろう。その時はうまくのがれたとしても、ヒッター二人の暗殺未遂の責任は今回の任務に関わった全員に向けられてしまう。

 ……仲間たちが危ない。

 そう思うと、いてもたってもいられなかった。しかし、いま自分にできることは、テラと馬を守って、アシュナたちに合流する手立てを考えることだ。

「顔色が悪い。いけないよ、あまり考え込んじゃ」

「わかっています。でも、あの人たちが……」

ティアルが苦痛の声を上げると、テラはティアルを抱きしめた。

「落ち着いて、考えて。人間にできることなんて本当にちっぽけなことよ。それをあわせて、偉大な技を成し遂げてくださるのは、ほかならぬ神なの。わかる? ティアル、あなたは試されているのよ」

「おれが? 何をですか?」

「あなたに神に信頼し切る勇気と決断力があるかどうか、ということよ」

 神に信頼し切る勇気?

 ティアルはテラから身を離して、考え込んだ。

「ほら、そんな顔しない。ただ、自分の能力でなくて神だけを頼ればいいの。どんな状況にあっても、神だけ信じていれば揺るがないわ」

テラがそう言って優しく微笑むのを、ティアルは困ったような顔をして見詰めた。

 雨足が激しくなっている。馬はだいぶ落ち着いたようだ。テラももう走れるという。ティアルは、動けなかった。体が言うことを聞かなくなっていた。

「いやだわ、わたくしめが暖かい代わりに、あなた様が寒い思いをしてるのね」

テラが上着を脱いで、ティアルに返してくれた。

「寒くありませんか?」

「ええ、もう大丈夫よ。ありがとうね、ほんとうにありがとう」

 なでてくれる手は優しく温かかった。

 ……お母さんみたいな人だな。ティアルはそう思った。

 ……あ、そうか。

「テラさん、エテル王女の乳母さんだったんですか?」

ティアルは聞いてみた。テラは「あら」といって、すこし恥ずかしそうに笑う。

「わかった? ディオにもよく言われるわ、誰かれ構わず母親みたいな対応をするって。ディオは子供扱いされて嫌みたいね。あなたは?」

「いえ、おれは全然気にしません」

「そう、よかった」

テラはティアルの横に腰かけた。ティアルは震えている。

「すみません。早く、姫たちに合流しないといけないのに」

テラは首を振る。

「焦ったって何にもならないわ。大丈夫、まだ雨は止まないでしょう」

ティアルはうなずくが、まだ眉間にしわを寄せて申し訳ないというように顔を伏せていた。

 テラはふっとため息をついて、静かに言った。

「エテル姫はね、わたしにしか抱かれたことがないの……父上も母上も、ほったらかしだったのよ」

 ティアルがテラの方を見る。

 雨の音の中、エテルの泣き声を思い出すように、テラは大きく息を吸った。

 

   *  *  *

 

――そう、あれは今日ほどではないけれど、ひどい雨の日だったわ。


(最終更新:2016.5.22.)