エピソード.6 姫君

 雨の音に、そのか細い産声はほとんどかき消された。

 

 王は、生まれたのは男か、男かと聞いてくる。王妃が残念そうに女の子ですわ、と言う。

 わたくしは、生まれた子を抱いていたが、ご両親はこちらを見ようとしなかった。

「どうしたものかな」

「やはり、貴族の者から養子を連れてくるしか、ないのでは?」

雨に向かって二人で話している。

 

 女の子が泣きはじめた。母親はちらっとこちらを見たが、頼むわねとわたくしに言って、また王が向かっている窓に向かった。

 泣く子に、よしよしと声をかけて眠らせようとする。名を呼んで落ち着かせたいと思ったが、あいにく、まだ名を決められていない。男の子であれば、真っ先に、代々伝わる国王の幼名をつけたであろうに、女の子の場合はほとんど想定していなかった。

 

「あの、この姫様のお名前はどうなさるのですか?」

わたくしは王と王妃に聞いてみた。予想通り、ぬるい答えが返ってきた。

「考えていなかった」

「女の子ですから」

「そうだな、テラ、そなたが決めればよい」

わたくしはしかたなくうなずいて、本人が望むはずもない、わたくしがつけた名で呼んだ。

「エテル姫、いきましょうか」

 彼女はとても可愛かった。はいはいを始めたのは遅かったけれど、それ以外は普通に、ほかの子と変わりなく育った。……ただ、両親に抱っこをしてもらったりすることは、全くなかった。

 両親にとっては初子ではない。上に男の子が四人いる。だが、彼らのうち一人は病死しており、他のふたりも病気があったり、ひとりは王子という立場にありながら問題を起こしたりして、次期王位継承者たる者はいない。

だから、今度男の子が生まれたらその子が次の王となる予定だった。

 それが、女の子だったものだから、両親のみならず王家に関わる者ほとんどが落胆の色を隠せなかったのだ。

 

 ザノア帝国は大き過ぎる。周りの弱小国など相手にしない。隣国のテレムは王家を持たずに神に従う国だから、ザノア王家の女性は嫁ぎ先がない。政略結婚にも「使えない」、何の「使い道もない」人間なのだ。

 

 ひどい話だ、と思う。せっかく生を受けてこの世に生まれてきたのに、喜ばれもせずむしろがっかりされるなんて、そんなひどいことはない。わたくしはだから、この姫にできる限りの愛情を注ぎたいと思った。

王族に生まれた女性ほど、つらい立場はない。生きているのに、その存在はほぼ忘れ去られている。エテルは部屋に引きこもり、顔を合わせるのはわたくしと世話係のサラ、それに護衛士のディオだけだった。

 

 わたくしはそんなエテルに、わたくしの信じる神のことをお話ししようかとも思った。こういうつらい立場だからこそ、神に救いを求めるのが一番いいと思ったのだ。

しかし、サラは止めた。

「よくお考えください、テラさん。エテル姫様は、仮にも王族の身。ただでさえ女だからと言ってさげすまれているのに、神を信じる者となれば、ますます風当たりは悪くなりましょう」

 サラの忠告はもっともだと思った。それで、その後何度かお教えしようと思った機会もあったが、その度に言葉を飲み込んで、ただわたくしが注げる限りの愛情を持って接していた。

 サラもディオもわたくしも、密かに旧セント=ヤティル教会で洗礼を受け、神を信じる者となった「隠れ信者」だった。人目を気にしなければいけないことが多く、何かと神経を使う……この王宮内では。

 ここは、神にそむいた者たちの子孫の国。いまでも、王族はかたくなに主を拒んでいる。国を挙げて神を信じることを禁じ、「隠れ信者」を見つけては弾圧してきた。

 

 その主格となるのが、軍隊だ。

 彼らは武力を行使することを許され、時にはヒッターと呼ばれる暗殺者を送り込んで高い位にいる信者でも暗殺する。暗殺の情報は漏れぬよう、ヒッターも殺されるらしい。もっとも、優秀であれば生かしておかれるらしいが。

 

 もしエテルが信者になったら、その軍によるヒッターのターゲットになる恐れがある。ヒッターを差し向けられる場合ほとんど前兆がなく、知らぬ間に命を狙われて、殺されてしまう。

 

 ただでさえ王位の後継者として邪魔な存在であるエテルは、王宮内部にだって暗殺を企てる者がいないとは言えない。そんな状況下で信者になれば、立派な殺す理由ができてしまう。神を信じることは国で禁止されているのだから、王族であっても罰せられることになっている。そんな危険を、わざわざ作ることはない。そう思ったのだ。

 

 しかし、あるときエテルの様子に変化が見られた。

 サラとわたくしが密かに祈りをささげるのを、そっと見ていたことがあったのだ。彼女は十歳だった。すぐにディオが連れ出してくれたので、何事もなかったと思っていた。つい先日までは。

 

 四年ほどたった最近になって、エテルはディオのことを「ディザオ」と呼んだのだ。ディザオと言うのは、ディオの、「神に仕える者」になる前の名。ディオは洗礼名で、もとはディザオというのだ。

 しかし、洗礼名であることが知られれば「神に仕える者」だと疑われるので、もともとの名は伏せてある。

 ……それなのにエテルはなぜ、ディオの本名を知っていたのか。

 

 ディオに聞いてみたところ、「実は」と言いにくそうに打ち明けてくれた。

「エテル姫があなたたちの祈りをのぞき見たことがあるでしょう。あのとき、あれはなんの儀式なのか、しつこく聞かれたんです。それで、だれにも話さない約束で神の教えをお伝えしました。そのとき、私の洗礼を受ける前の名も教えたんです」

わたくしはうなずいて、ディオを責めなかった。危険な状況になったことは確かだが、エテルは本気で神を信じている。

 

 嬉しかった。エテルも、神のことを知ることができたことに、本当に心から感謝した。サラは最初は驚いていたが、「でもよかったかもしれませんね」と穏やかに言った。ディオも心の荷が下りたように、にっこりした。

 危険な状況にもかかわらず、神を知ることができた喜びに、エテルは礼拝をささげることをやめなかった。

 

「テラ、そなたの洗礼を受ける前の名は、なんだったの?」

「ステラと言いました」

「では、わたしが洗礼を受けたら、どうなるのかしら」

エテルは、洗礼を受けたいというのだ。

 

 洗礼を受けるとなれば、お忍びで旧教会に行くか、教会の者に来てもらわなければならない。そうなると、かなりの危険が伴う。どちらも、ばれる恐れがあるのだ。

 教会の者に来てもらうのは危険すぎる。やはりお忍びでいくしかない。

 

 ディオは前々からその必要を感じていたようで、護衛ならお任せを、と力強く言ってくれた。ただ、お忍びに大人数の護衛士はついていけない。ディオがついていけば、いくらごまかしても目立ってしまう。

 結局、五十の年配の女のなりをしていて怪しまれにくいわたくしと、エテルだけで行くことにした。

 わたくしはエテルの祖母という設定、エテルは「ナターシャ」と名乗ることになった。テラ、という名は知られていないので、問題ない。

 

 エテルが出かけるのは珍しい。出かけるということが知られたら、どうしても目をつける者がいるだろう。だから、出かけるのだということも伏せて、城から抜け出すようにして教会へ向かった。わたくしも洗礼を受けた、旧セント=ヤティル教会へ。

 セント=ヤティル教会は、今は廃墟となって「旧」がついてしまっている。それほど崩れてはいないが、牧師も信者もいない。

誰に洗礼を授けてもらうかというと、教会の地下に隠れ住んでいる元牧師だ。もうご高齢で、後継者もいないため、エテルが洗礼を受ける最後の人になるのかもしれない。

 

「よく、よく、来てくださいました」

隠し扉を決められたように叩くと、その老牧師が出てきた。

わたくしの顔を見て、「ああ、あなたでしたか」と言う。

「お久しぶりです、牧師さん。この子は、わたくしが仕えるエテル姫です。洗礼を授けてください」

「おお、おお、姫様ですか、大きくなられたのですね。いや、いや、いいですな、若い方が神を信じるのは」

以前と変わらず、かたい形式の言葉を簡単に壊して、エテルにもにこやかに笑いかける。誰に対しても、この態度は変わらないようだ。

 

 老牧師はわたくしたちを地下へ案内し、新しく築かれた祭壇に向かった。

「お変わりありませんのね」

「いえ、いえ、年老いました。あなたは、まだ、まだ若いですなぁ」

「まあ、そんなこと」

わたくしたちの久しぶりの会話に、エテルの表情も和らいでいた。

 

「牧師さま、わたくしが洗礼を受けたら、どのような名になるのですか?」

エテルが、緊張もだいぶ解けた表情で問うた。

「それは、その時に神が与えられるのですよ。心配しなくても大丈夫、すべては神の御心のままに」

老牧師は、天を仰ぐようにして天井を見た。

 この仕草も、変わっていない。

「すべては、神の御心のまま?」

「ええ、ええ、そうですな」

 

 両親が見たらどのような顔をするのだろう。

 エテルは、わたくしと老牧師、二人が見守るなか洗礼を受けた。エテルは、本当に幸せそうな表情だった。

 

「エステル=ヤティル=ローザン」

エテルが祭壇を下りた時、老牧師がそうよびかけた。

「は、はい」

「これがあなたの名です。エステル姫と、そう呼ばれるのです」

「エステル…=ヤティル…=ローザン……」

エテル……いえ、エステルは、そう口の中で繰り返した。

「ありがとうございます」

「ええ、ええ。神があなたを祝福されますように」

 

 教会を出て城に着くまでは口を開かなかったが、部屋に無事戻ると、彼女は、幸せだわ、とつぶやいた。

「危険なことは分かっているわ。でもそれ以上に、幸せでしょうがないの」

ディオやサラにそう嬉しそうに話す姿を見て、わたくしも本当に嬉しかった。ディオもサラも、安堵の表情を浮かべていた。

 

 それで済むとは思っていなかった。

 おそらく、そのうちばれるだろうと。

 でも、それは思ったより早かった。あの日城には切れ者の門番がいて、こっそり抜け出してこっそり帰ってきたわたくしたちを見ていたのだ。彼は、終始わたくしたちの後をつけていたらしい。

 彼の密告によって、教会の老牧師も捕らえられて軍に任され、教会はそれ以上人が残っていないか徹底的に捜された結果、ひどく荒らされたと聞いた。実際、人は牧師以外いなかったようだが。

 エステルはそれにひどくショックを受けたようだったが、それどころではなくなってきていた。

 

 サラが機転を利かせて、軍にいる父上の情報をもとに、自分でも足を使って、いつ軍が動くのかを聞きつけて来てくれた。

「まだ軍の上層部に伝わっただけで、ヒッターたちが動くまで時間があるようです。こちらが動けば、軍も焦るでしょうけど」

 ディオがうなずいて、エステルに向かって言った。

「ご安心ください。姫は我々が、必ず守ります」

 

 扉を叩く音がする。

「エテル姫、出ていらしてください。国王がお呼びです」

 

 その時には、わたくしたちはその部屋にいなかった。

 あの切れ者の門番ではなかったらしく、姫が「森林浴に行ってくる」と言うと、珍しいですねと言いながら簡単に通してくれたのだ。

 森を駆け抜けているうちに、サラが言った。

「きっと軍はヒッターを差し向けるでしょう。公に殺せはしません、街の道を走った方が得策です」

ディオはうなずいて、馬車を方向転換して森を抜けた。東に向かい、夜通し走った。

 夜が明けないうちに、わたくしたちはひとつの廃墟と化した教会についた。ここで、少しだけ休むことにしたのだ。

 

 だが、ディオがヒッターの姿を確認したと言う。

「ここは危険です、早く違うところへ」

「では、旧ヤティル教会へ行きましょう。あそこの様子も、見ておきたいし」

エステルは、捕らえられた牧師のことを心配しているのだ。いまさら行っても何にもならないとは分かっているが、それでも行かずにはいられないのだろう。わたくしも同じ気持ちだった。

「行きましょう、ディオ、北へ向かって。セント=ヤティル教会よ」

 

 こうして慌ただしく教会を出たが、それを見られていたらしい、しばらくして後をつけられていることに、サラが気づいた。

 きっとヒッターたちだ。

「いそいで。追いつかれたらおしまいよ」

「大丈夫、神がついてらっしゃいます!」

ディオがぐんとスピードを上げる。

 エステルがバランスを崩すが、ディオはどんどんスピードを上げる。

「後を追ってこなくなりました」

サラが後ろを見ながら言う。

 

――巻いたのかしら?

「あと少しです。踏ん張って!」

ディオはできる限りのスピードで、旧セント=ヤティル教会を目指す。

 雨は降りしきる一方だ。もうしばらく、止みそうにない。教会で、一休みできるかもしれない。

 霧の中に、教会の影が浮かび上がってきた。外見はそれほど、以前と変わらないように見える。

「崩されたわけじゃないのね」

エステルが、少し安心したように言った。そのあと、すぐに表情を曇らせる。

「あの牧師さまは……どうなさったのかしら」

 わたくしも同じことを考えていた。ディオが馬車のスピードを緩め始める。

「荒らされたというのは、内部のことのようですね」

わたくしが声をかけると、エステルは少し表情を戻してうなずいた。

 

 サラが先に降り、あたりをうかがった。

「姫様、いそいで」

「ええ」

教会の扉は、何なく開いた。ギイッと音を立てて開き、教会内に雨の音がこだまする。

 ほっとする間もなく、教会堂の中心に小さな明かりが点いた。

 

 誰かいる?

 

 それを認めると、さっとディオが前に出て、サラとわたくしの二人はエステルに寄り添う形で立った。

 その人は明かりを持って近づいてきて、膝をついた。

 

 その服装に気付いたのだろう、エステルが口を開く。

「あなた……ヒッター? わたしを殺しに来たのね?」

 彼は首を振った。

 

 

 

 それが、神からの使い。

 ティアル、あなただったのよ。


(最終更新:2017.2.6.)